なぜ私は「正しさ」と距離を置くのか|正解探しを卒業し、自分の軸を取り戻すまで

コラム

私は、「いつでも誰にでも当てはまる“正解”」があるとは思っていない。

  • 生き方の正解。
  • 人としての正解。
  • こうあるべきという基準。

それらが普遍的に存在する、とはどうしても思えない。
もしそんなものがあるなら、きっとこんなにも人は迷わない。

ただし、抗えない前提はある。

重力はあるし、
何もしなければ衰える。

でもそれは「どう生きるのが正しいか」とは別の話だ。

私は、後者の“普遍的正解”を疑っている。

「前向きさ」が推奨される社会へのささやかな抵抗

いまは、前向きであることが推奨されやすい。

「落ち込むより切り替えろ。」
「悩むより行動しろ。」
「ネガティブは手放せ。」

もちろん、それが役立つ場面もある。

でも時々、それが「扱いやすい人材」の条件になっていないか、と感じる。

私は、そこからも距離を置きたい。

私の出発点:親の期待と「正解論」の中で生きた日々

私の出発点には、はっきりとした「こうあるべき」があった。

本当は男の子が欲しかった父。
「女の子を産んだ自分にも価値はある」と証明しようとする母。

私はその軸の中にいた。

だから私はその正解論から外れたいと思った。

レールから外れても価値はあると、どこか必死に証明しようとしていた。

でもある時、気づいた。

レールの上を歩くのも、
レールから外れるのも、
どちらもそのレールを前提にしている。

反発している限り、その軸から自由ではない。

そのことに気づいたとき、ちょっとだけ苦笑した。

と同時に、私を縛っていた鎖がひとつ外れた気がした。

思考の罠:選択肢が「一択や二択」に見えるとき

では、何を基準にするのか。

私はこう考える。

いま見えている選択肢は、本当に一択なのか?

他の道は存在しないのか?

たとえば、
仕事がしんどい。
「辞めるか、我慢するか」の二択に見える。

でも本当にそれだけだろうか。

  • 部署を変える。
  • 働き方を変える。
  • 相談する。
  • 期間を区切る。

一択や二択に限られていたときは、
それ以外の選択肢は“存在しないもの”になっている。

組織にとって都合がいいのは、
迷わず、疑わず、明るく前を向く人だ。

それがいつの間にか「正しいあり方」にすり替わっていないか?

「前向きに頑張る」が唯一の正解のように扱われていないか?

私はそこを疑いたい。

答えを出す前に「他の道」の存在を知る

いきなり答えを出さなくていい。
まず、他の道があるかもしれない、と知る。

選択肢は複数あると分かった上で、
その中から自分で選ぶ。

私はそこに重きを置いている。

違和感は「甘え」ではない:立ち止まるための大切なヒント

選んだ自分に対しての違和感は、ヒントにもなる。

周囲から見れば順調なのに、
自分だけがどこか息苦しい。

それを「甘え」と切り捨てるのは簡単。

しかし、それは“正解側にいる人”から見た評価かもしれない。

私は違和感を、即断の理由にも無視の理由にも使わない。

ただ一度、立ち止まって、見落としている選択肢がないか、再確認するきっかけとして使う。

怖さも違和感になるし、
成長の手前も居心地が悪い。

だから違和感を絶対視しない。

でも、ポジティブの名のもとに見なかったフリもしない。

最後に:面倒で扱いづらくても、「問い」を消さない人でありたい

私は正解という言葉を否定しているのではない。

ただ、
誰にでも当てはまる正解がある、
とは思っていない。

正解を絶対化した瞬間、「本当に選択肢はそれしかないのか?」という問いは消える。

たとえそれが、
少し面倒で、
少し扱いづらい人間に見えたとしても、

私は、その問いを消さない人でありたい。

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