以前の記事でジャッジしないこと=思考停止ではない、
という話を書いたけど、
私は、どちらかと言えばジャッジすることが思考停止に繋がると考えています。
自分は悪くないと決めると、そこで改善や対策が練られないというルート。
悪いと決めれば、過剰に背負いすぎたり、自己否定ぐるぐる沼に陥るばかりで結局動けないというルート。
ジャッジせず、どちらも可能性として置いているからこそ、
どこまで自分が引き受けるかという責任への分岐になり得る。
なぜジャッジすると思考停止につながるのか
少し分けて説明してみる。
ジャッジは「探索の打ち切り」であり、
「私は悪くない」も、
「私はダメだ」も
どちらも 認知の早期確定。
自分は悪くない
→ 外在化
→ 改善点・対策の探索が止まる
→ 同じことが再発しやすい
自分が悪い
→ 内在化+過剰一般化
→ 自己否定ループ
→ 行動エネルギーが枯渇する
どちらも「これ以上考えなくていい状態」を作ってしまう。
つまり、ジャッジは「楽」だけど、成長や修正を止める方向に働きやすい。
ジャッジ=脳の省エネモード
脳にとってジャッジは、
- 処理を早く終わらせる
- 不確実性を減らす
- 感情的な負荷を一時的に下げる
という意味では合理的。
でもその代償として、思考の柔軟さは削られ、選択肢が減りかねない。
その結果、
- 改善策を考えない
- 行動が極端になる 、もしくは 止まる
ジャッジは一見「考えた後の評価や判断」に見えるけど、実際は思考を閉じている(終了してしまった)状態。
「どこまで引き受けるか」が見えなくなる
ジャッジが入ると、
- 全部自分の責任(=過剰負荷)
- 全部他人や環境のせい(=放棄)
の、二択になりやすい。
一方、ジャッジを保留すると、
- ここは自分が引き受ける
- ここは環境要因
- ここは仕組みで補う
- ここは誰かに頼る
という 責任の分割・分配 が可能になる。
どこまで自分が引き受けるかという責任への分岐。
ジャッジをしない姿勢は思考停止どころか、「考えている状態」を維持する姿勢。
責任回避ではなく、責任を精査しているということ。
ジャッジしないから見えてくるもの
ジャッジを保留するからこそ、
- 改善
- 対策
- 責任配分
- 行動
が可能になる。
そして何より、どちらの可能性もあることを前提にしているからこそ、見えてくる選択肢がある。
出来事が起きたとき、そこには必ず複数の側面があります。
上手くいかなかったところもあれば、十分やれていたところもある。
手に入れたものもあれば、失ったものもある。
どちらも見ながら、自分がどこをどこまで引き受けるか考える。
これは「優柔不断」ではなく、選択の自由度と視野を確保するための思考。




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